豊臣秀吉の葬儀はどのようなものだったのか

織田信長の後を継いで天下をとった豊臣秀吉。

しかし、そんな豊臣秀吉も晩年になると朝鮮出兵などの政策の失敗が目立ち、勢いが衰えていきます。

そして豊臣秀吉の葬儀は勢いの衰えていく豊臣家の未来を予想させるようなものでした。

では、豊臣秀吉の葬儀とはどのようなものだったのでしょうか。

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天下人の死

豊臣秀吉は大きな花見を終えたあと、体調を崩します。

そしてそのまま死の床に伏してしまうのです。

現在でも豊臣秀吉の亡くなった原因はわかってはいません。

ただ現代に伝えられている豊臣秀吉の病状などからがんや老衰など、様々な死因説は出ているものの、決定的な決め手がないまま今に至っているのです。

死の床についた豊臣秀吉は繰り返し周囲の人々にわが子である豊臣秀頼のことを頼む、と伝えていました。

そして1598年の8月18日、豊臣秀吉は亡くなったのです。

死を秘密にしていたのは?

本来ならば豊臣秀吉が亡くなった時点で行われるはずの葬儀ですが、ストップがかかります。

ストップをかけたのは五大老と五奉行という政務を行う豊臣政権のトップたち。

五大老たちは話し合って豊臣秀吉の葬儀を今行うのは妥当ではないと結論付けたのです。

実は、その時は朝鮮出兵の慶長の役に最中でした。

まだ朝鮮に兵たちを派遣している最中だったのです。

もしここで天下人である豊臣秀吉の死を公表してしまったら間違いなく朝鮮にいる兵たちの士気は下がります。

五大老たちはそれを恐れ、豊臣秀吉の死を公表せず、葬儀を行わないことにしたのです。

そして密かに豊臣秀吉の死はささやかれていたものの、まだ存命中のことにしたうえ、豊臣秀吉の遺体は数人の家臣とともに葬られることになったのでした。

派手な葬儀は行われなかった?

そうして豊臣秀吉は天下人としては寂しい最期を迎えます。

10月に朝鮮から全軍を撤退させるまで死を秘匿し、結局葬儀は行われることはないまま1599年、豊臣秀吉を祀る豊国神社が建立されたのです。

しかし、一方で豊臣秀吉の大掛かりな葬儀が行われた資料が残されています。

そこには葬儀の参列者の名前、その位、さらに供の人数などが書かれているのです。

その資料によると、豊臣秀吉の葬儀には諸大名、五大老を含め3万人あまりもの人数が参列したと書かれています。

しかし、豊臣秀吉の死は秘匿され、結局葬儀は行われなかったはず。

実は、この大掛かりな葬儀の様子を描いた資料はすべて架空の葬儀の様子を書いたものだったのです。

豊臣秀吉を哀れんだ庶民たちによって作られたといわれているのです。

天下人となった豊臣秀吉とその架空の葬儀。

実際には、天下人である豊臣秀吉の葬儀は行われることはなかったのです。

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