天下を取って大きな権力を持っていた豊臣秀吉。
しかし、戦国時代のころの武将は血縁関係にある人物を取り立て、活用することが多かったものの、豊臣秀吉には血縁関係にある人物は多くはありませんでした。
しかし、豊臣秀吉には血を分けた弟や姉がいます。
そして、結婚すれば正室、側室や義母などの新しい家族もできます。
では、豊臣秀吉の家族にはいったいどんな人物がいたのでしょうか。
早くに亡くなった豊臣秀吉の父親
豊臣秀吉の両親は母はなか、父は弥右衛門という人物でした。
父親については諸説ありますが、織田の足軽だったといわれています。
しかし、戦で負傷し、農業を行っていた人物です。
また、鉄砲足軽だったともいわれますが、当時織田では鉄砲は導入されていなかったので、それは間違いだとされています。
そして豊臣秀吉の家族には姉のとも、異父弟説もある弟の秀長、妹で朝日姫(旭姫)がいます。
幼少期の豊臣秀吉の家族には兄弟達がいたのです。
しかし、父弥右衛門は1543年に亡くなってしまいます。
豊臣秀吉がまだ幼い少年のころでした。
一家の大黒柱を失った豊臣秀吉はそれから多くの種類の仕事を経験しながら成り上がっていくのです。
豊臣秀吉によって引き離された妹夫婦
豊臣秀吉が幼いころに父が亡くなって以来、紆余曲折がありつつ天下を取った豊臣秀吉ですが、天下人になってからは弟や妹、姉を活用していきます。
例えば姉、ともは秀次、秀勝、秀保を産みますが、秀次、秀勝は豊臣秀吉の養子に、そして秀保は秀長の養子になっているのです。
これは豊臣秀吉は子供になかなか恵まれなかったため、養子を家族に迎え入れ、跡継ぎ候補にしていたため。
更に、豊臣秀吉の実の家族で妹の朝日姫(旭姫)は結婚し、結婚生活をしていたものの、豊臣秀吉の手で離縁させられています。
それは豊臣秀吉の政略のためでした。
そうして豊臣秀吉によって離縁させられた朝日姫は徳川家康のもとに嫁がされることになったのです。
義母、秀吉を許さず
豊臣秀吉は血縁である姉などの実の家族を活用しましたが、大人になると結婚で正室や側室といった新しい家族を得ます。
正室であるおね、側室である淀殿をはじめとして多くの側室を持っていたのです。
しかし、おねの実の母、つまり豊臣秀吉の義母となった朝日は豊臣秀吉のことを毛嫌いしていました。
なぜなら、豊臣秀吉が卑賤の出ながら娘と結婚したためです。
もちろん、卑賤の出である豊臣秀吉との結婚を許してはいませんでした。
では、なぜおねと豊臣秀吉は結婚できたのでしょうか。
実はそれにはおねの姉夫婦の協力がカギとなっていました。
姉の七曲殿と浅野張勝夫妻がおねを養女にして、豊臣秀吉と結婚させたのです。
これにより、豊臣秀吉の義母、朝日は激怒したと伝えられています。
血縁関係にあたる人物は少なかった豊臣秀吉ですが、実の家族には姉や弟がおり、そのことを活用して天下人へと上り詰めていったのです。
そして、正室、側室などを持ち、新たな家族を増やしていきましたが、おねの義母が豊臣秀吉との結婚を許さなかった話のように、さまざまなエピソードでそれらの関係を見て取ることが出来るのです。