現代では、唐辛子を使って作る激辛料理などが日々テレビなどのメディアで話題になっています。
しかし、そんな激辛料理に欠かせない唐辛子が日本に登場し、現在ほど親しまれるようになったのはつい最近の事。
豊臣秀吉が生きていたころには、まだ唐辛子は一般の食卓に上ることはほぼありませんでした。
それどころか、実は食べ物、香辛料という見方さえされていなかったこともあったのです。
そしてそんな唐辛子と豊臣秀吉には実はちょっと意外なつながりがありました。
いったい豊臣秀吉と唐辛子にはどんなつながりがあったのでしょうか。
目次
唐辛子は食べ物ではない?
もともと日本になかった唐辛子。
唐辛子は様々な種類があり、この時代に来た、と断言はできません。
しかし、どうやら室町時代から江戸時代の初めごろにはすでに日本で使われていたようです。
つまり、豊臣秀吉が生きていたころにはすでに日本に伝わってきていたのです。
しかし、当時一般的には唐辛子は食べ物、または香辛料として使われていたわけではありませんでした。
実は当時の日本では唐辛子を毒物、または観賞用としてとらえていたのです。
また、足袋にいれてしもやけを防止するなど、料理とは全く別の使い方をされていました。
数ある渡来説
そんな唐辛子が日本に来た理由、そしてその状況は詳しくわかってはいませんが、大きく分けて三つの説があげられます。
まず、鉄砲が伝来した時に一緒に伝わったという説。
次に、1542年にポルトガル宣教師が現在の大分県に持ち込んだという説。
最後に、豊臣秀吉が朝鮮出兵した時に日本に持ち込んだという説です。
唐辛子は南蛮、南蛮胡椒とも呼ばれることがありますが、これは当時南蛮人と呼んでいたポルトガル人から伝えられたから、といわれることもあります。
どの説も現在では決め手がなく、どんな渡来方法だったかはわからないのです。
そして、ややこしいのが最後の豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った時に持ち込んだという説。
実は、この説には全く逆の、豊臣秀吉が日本に伝わっていた唐辛子を朝鮮出兵の時に朝鮮に持ち込んだ、という説もあるのです。
豊臣秀吉との関わり
唐辛子は日本から朝鮮に持ち込まれた、という説と朝鮮から日本に伝わったという説があります。
このどちらの説にもかかわってくるのが豊臣秀吉の朝鮮出兵です。
唐辛子は豊臣秀吉の朝鮮出兵をきっかけにどちらかの国に伝わることになったのです。
また、実は朝鮮から日本に唐辛子が伝わった、という説には実はもともと九州で栽培されていたものが朝鮮出兵で朝鮮に伝わり、さらにそこから当時唐辛子に馴染みがなかった本州に上陸したことで、唐辛子は朝鮮からやってきた、と誤解されているのではという説もあります。
謎の多い唐辛子の日本への渡来経路。
その謎に豊臣秀吉も一枚かんでいるのです。