豊臣秀吉の父親は足軽であり、農業を行っていたとされています。
豊臣秀吉は天下人でありながら幼いころは農民と同じ暮らしをして育ってきたのです。
そんな豊臣秀吉ですが、天下をとってから農民に向けた政策をいくつも考えています。
では、農民に向けて豊臣秀吉が行った政策とは一体どんなものがあったのでしょうか。
豊臣秀吉の二大政策
豊臣秀吉が農民に向けて行った政策の中で、広く知られているものが2つあります。
それが検地と刀狩りです。
この2つの政策は豊臣秀吉が行った中でも大きな政策ですが、いったいなぜ検地と刀狩りは行われたのでしょうか。
実はそれは豊臣秀吉にとっては中心政策と呼べるほど大きな意味を持っていました。
検地は戦いに通じる?
田畑を測量し、生産高を調べる検地ですが、豊臣秀吉が初めて行ったのは1582年のこと。
それからは新しく土地を手に入れるたびに次々検地を行っていくのです。
この一連の検地を太閤検地といいます。
この政策では面積の表示を新しい基準で統一し、桝の容量も京都で使われていた京枡を使いました。
また、検地帳には耕作している農民の田畑と屋敷地を書き込むことで、田畑の所有権を認められることになりますが、石高に応じた年貢などの負担も背負うことになりました。
詳しく言うと、検地帳によって生産されたものの3分の2を年貢として納めさせたのです。
豊臣秀吉は農民に対して行う検地という政策には特に力を入れていました。
なぜ検地をするか説明し、従わないものがあればなで斬りにせよ、という命令すら出しているのです。
農民に対して行うこの検地という政策ですが、実は豊臣秀吉だけが行っていたわけではありませんでした。
当時、他の土地を治める戦国大名たちも行っていた政策なのです。
しかし、豊臣秀吉とほかの戦国大名たちが行う検地には大きな違いがあります。
それは、他の戦国大名たちがこの政策を行ったのは自分の領地の中だけということ。
それに対し、天下人である豊臣秀吉が検地を行ったのは全国規模だったのです。
そしてそんな検地という政策には、隠された意味がありました。
検地はその土地からいくら米がとれるかを知るための政策です。
これはすなわち、その米で何人の兵を戦地で使えるか、ということにつながっていくのです。
つまり、検地という政策を行うことで戦いの計画を立てるのに必要な情報を検地で知ることが出来るのです。
大仏造りに刀狩り?
更に豊臣秀吉が行った農民に向けた政策の中には刀狩りがあります。
刀狩りを行う建前として豊臣秀吉は大仏を造るため、としていますが、実は当時の土一揆などで刀が使われていたので、その武器を没収するためであり、農民という身分をはっきりさせるためだったのです。
豊臣秀吉が農民に向けて行ったこれらの政策ですが、実はその政策を行った裏まで考えることで、先の先まで考えていた豊臣秀吉の考えを読み取ることが出来るのです。