最初はキリスト教を禁止してはいなかった豊臣秀吉ですが、のちにキリスト教を禁止し、宣教師を追放するバテレン追放を行ったことはよく知られています。
そのバテレン追放はバテレン追放令が出されたことで進められていったのですが、そのバテレン追放令とは一体どんなものだったのでしょうか。
そして、その結果、キリスト教は一体どうなっていったのでしょうか。
キリスト教の勢いは?
最初はキリスト教が広まっていくことをそれほど制限せず、宣教師のことも追放しようとはしていなかった豊臣秀吉。
しかし、そんな豊臣秀吉がバテレン追放を行うことになるのはキリスト教を警戒し始めたからです。
警戒されることになった理由には当時のキリスト教の勢いの凄さをあげることができます。
実は1594年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来てキリスト教を伝えてから最初の1年の信者は一般庶民層が中心であり、信者の数は6千人ほどにしかすぎませんでした。
しかし、そこから洗礼を受けるなどしてキリシタン大名が誕生し、領民をキリスト教に誘導していったことで布教の勢いに拍車がかかります。
その結果、信者数がなんと1614年には50万ほどにまで膨れ上がるのです。
一般庶民だけではなく大名までキリスト教に親しんだこと、そして一気に信者数が膨れあがったことが豊臣秀吉のキリスト教への警戒心を煽ることとなったのです。
バテレン追放令とは?
そしてついに宣教師を日本から追放するバテレン追放が起こってしまいます。
そのバテレン追放の動きの中心にあったのがバテレン追放令でした。
バテレン追放令は5カ条からなっており、最初の3カ条まででキリスト教の布教を禁止し、宣教師は20日以内に国外に退去することとしています。
しかし実は、そのあとの4、5カ条ではポルトガル船の商売を保証し、キリシタン国からの来航を許すことが書かれているのです。
こうしてキリスト教を警戒する一方で、ポルトガル船との南蛮貿易が経済力の源の一つとなっていたことにより、豊臣秀吉のバテレン追放は今一つ徹底されてはいませんでした。
どうしてうまくいかなかったのか
豊臣秀吉が行ったバテレン追放は結局中途半端に終わってしまいます。
バテレン追放令で宣教師たちの国外退去を求めたものの、宣教師の国内滞在を最終的には許してしまうこととなったのです。
この失敗は、豊臣秀吉の思い違いによるものでした。
豊臣秀吉の出したバテレン追放令からわかるように、豊臣秀吉はキリスト教の布教と貿易を区別し、別物としてとらえていることがわかります。
しかし、実際はキリスト教の布教と貿易は固く結びついており、宣教師を完全に締め出してしまえば貿易もうまくいかなくなってしまう状態だったのです。
自らの経済力の源である南蛮貿易をなくすわけにはいかなかった豊臣秀吉は結局はキリスト教の布教を見逃さざるを得なかったのです。