信長のもとで豊臣秀吉があげた功績とは

本能寺の変で織田信長が亡くなるまで、豊臣秀吉はその家臣として戦い、様々な働きをしてきました。

織田信長が亡くなり、天下人となってからの豊臣秀吉の様々な政策はとても有名ですが、織田信長のもとで様々な戦いを経験してきた戦いの功績も大きなものでした。

では、豊臣秀吉が織田信長のもとで戦い、あげてきた功績にはどんなものがあるのでしょうか。

スポンサーリンク
hideyoshi-toyotomiレクタングル大

敵の追撃を食い止めろ!

豊臣秀吉が織田信長のもとで家臣として仕えていた時には、戦いで重要な役目を果たすことが多々ありました。

その功績の中には、織田信長が危機に陥った時に豊臣秀吉らの働きによってその危機を脱することができた金ヶ崎の退き口という戦いもあります。

この金ヶ崎の戦いは豊臣秀吉が織田能長のもとで挙げた功績として現在でも有名です。

1570年に朝倉義景討伐のために越前へ出張した織田信長は、その本拠地である一乗谷が間近に迫った時、浅井長政の裏切りにあいます。

思いもしない浅井長政の離反により、敵に挟み撃ちされる危険にさらされることとなったのです。

そこで織田信長が撤退するのを助けたのが豊臣秀吉、明智光秀、そして池田勝正の三将でした。

一足先に撤退する織田信長のしんがりを務め、織田信長を無事に撤退させることに成功したのです。

こうして豊臣秀吉は忠義に暑い家臣として織田信長の危機を救うという功績をあげたのです。

城を落とすには兵糧攻め?

更に、豊臣秀吉は司令官としていくつか城を落とすことに成功しています。

それも、自分側の兵の消耗がより少ない兵糧攻めなどで城を落とすことも多々ありました。

そのうちの一つが三木城の戦いと呼ばれる戦いです。

これは中国方面を織田信長に任された豊臣秀吉が毛利方の別所長治の治める三木城と敵対した時の話です。

その三木城での戦いで豊臣秀吉は兵糧攻めを行い、見事勝利するという功績をあげているのです。

三木城の戦いでの完璧な兵糧攻めは三木の干殺しとも呼ばれるものであり、豊臣秀吉の司令官としての腕の確かさをも見て取ることが出来るのです。

寝返り工作は得意技?

織田信長のもとで様々な功績をあげていた豊臣秀吉ですが、直接の戦いではなく、寝返り工作や交渉ごとに当たることも多かったといわれます。

例えば織田信長が3年かけてくだした美濃の斎藤氏ですが、この斎藤氏に勝てた理由の一つは豊臣秀吉の働きにあったともされます。

実は当時結束が固かった斎藤家の家臣団の内紛をかぎつけた豊臣秀吉は、それを見逃さず、松倉城の城主、坪内喜太郎利定などの側近たちを口説き落とすことに成功したのです。

更に北近江の浅井氏に勝ったときも、浅井長政方の家臣の篭絡に豊臣秀吉が成功したことが勝利のための大きな鍵となっています。

織田信長のもとで豊臣秀吉があげた功績は直接の戦いだけではなく、交渉事など、多岐にわたっていたのです。

スポンサーリンク
hideyoshi-toyotomiレクタングル大

hideyoshi-toyotomiレクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする